5年の旅が終わる日、私は何を感じ、どういう気持ちでいるのだろう。
ゴールをサンティアゴ・デ・コンポステーラに選んだ日から、いや、この旅のゴールをどこにしようかと話し合い始めた日から、いつも気持ちのどこかで「終わりの日」のこと意識した。
峠を登るのも最後、野宿するのも最後と何かにつけ最後を意識して、事あるごとに「ほれ私よ、どう思う?」と問うてみるものの、特別何かを感じることもない。
終わってほしくないから考えないようにしているという訳でもない。
自分でも驚くほどに実感が湧かないのだ。
湧かないだけにセンチメンタルにもならない。
最後のほうはもっと寂しい気持ちになって、涙涙しながら走ったりするのだろうかと思ったのに、
ゴール当日も「ああ、今日で走るのも最後なんだ。」と気持ちを盛り上げてみても、結局いつも通りの感情しか湧いてこなかった。
ゴールはあっけなくやってきた。
丘を登って視界が開けると、別の丘の上にサンティアゴ・デ・コンポステーラのカテドラルの二つの三角屋根が堂々と目の前に現れた。
「あの丘に辿り着いた時にこの旅は終わってしまうのだ」とそのとき初めて目が潤む。
楽しかった長い長い旅が終わってしまうのだ。とちょっぴりセンチメンタルな自分を楽しみ始めたのもつかの間、導かれるように向かうはずだったゴール、サンティアゴのカテドラルがすっかりと私たちの視界から消えてしまって、なかなかたどり着けない。
人に尋ねては迷うを繰り返し、やっと辿り着いたと思ったところは写真でみたカテドラルとはちょっと違っていて、人もまばらで「ここ??」と二人ともすっかり困惑してしまい、ぐるぐるとまた街を回り始める。
終わってほしくないという気持ちがなかなかゴールさせてくれないのだろうか。
それともゴールすることに少しばかり緊張している私たちを神様はおちょくっているのだろうか。
もうゴールは目の前のはずなのに全然たどり着けない自分たちが何だか可笑しくて仕方がなくなってくる。
カテドラルの正面に辿り着いた時にはゴールした喜びよりも、「ふぅ、やっと見つかったよ」と安堵が先にやってきてしまった。もっと厳かにスマートにゴールしたかったのになぁ。
妙なゴールになってしまったものだから、私もひろもゴールしたことにどうリアクションしたものだかすっかり分からなくなってしまった。
「おめでとう」と言い合い、「じゃ、記念写真でも撮ろうか」とカメラをいそいそと出す。
でもどこか二人ともぎこちない。
想像していたゴールの姿とはだいぶ違う。
「うぉー、ゴール!!」ってサッカー選手のように空を仰いで喜ぶような感動的なゴールをするはずだったのだ。
でも、こんなゴールが私たちっぽいのかなと思う。
カテドラルの前に座り込み、ゆっくりと5年の旅を思い出す。
随分と長い間、隣のひろとも喋ることなく思い出の中を旅しなおした。
なんて素敵な時間を過ごすことができたのだろう、
なんて多くの素晴らしい人たちと出会えたのだろう、
なんて地球は美しいところだったのだろう。
月並みな感想に聞こえてしまうかもしれないけれども、
多くの人々に,さまざまな神々に支えらて、数え切れないほどのラックがあってこそ実現した旅だったと思う。
先日エベレストに80歳で登頂した三浦雄一郎さんとか単独無寄航で世界一周を達成した白石康次郎さんのような冒険家が、「支えてくださった方々のお陰で達成することができました」などとコメントをしているのを聞くたびに、「いやいや、やり遂げた本人が凄いんだから」と思ったものだし、「いやきっと本人たちもあんなことを言っているけど社交辞令のようなものだ。」とも思っていた。
でも、彼らと自分を比べること自体がおこがましいのだけれども、
強く願っていたことをやり遂げた時、「やったー!やり遂げたんだ!!」という気持ちよりも、体の底から素直に感謝の気持ちが溢れ出てくるもんなんだと実感した。
ゴールはそんな感謝するべきことに気付かされる、穏やかなものだった。
ゴールは、言葉の響きほど大それたものではなかった。
ゴールは有頂天になって喜ぶものでもなかった。
何かの目的を持ってスタートし迎えるゴールは、人生の通過点のひとつでしかすぎないのだ。
目的が大きくても小さくても、何かを始める時は「スタート」したと思う。
でも必ずしもゴールを描いてスタートを切るわけでもないし、そもそもそのはじめた何かが終わりを迎えた時に「ゴールした」と感じることも少ない。
でもゴールは区切りをもたらしてくれる大切なものなので、何かを始めるときにもっと気軽にゴールを設定してスタートするのも悪くないなと思う。
さあゴールした。
そしてもうスタートしてるんだ。