「あーもうやめた。」
ビパサナも3日目になると、いい加減にしびれが切れてきた。
1日10時間×10日間の瞑想、上等じゃねえかと鼻息荒く乗り込んだものの、
「じゃあ今から1時間座って呼吸に集中してください。」と言われていきなりできるものじゃない。
足はしびれるし、背中は痛いし、空想や夢想が嫌になるほど次々と浮かんでくるしで、全く集中できない。初日なんてたったの5分も集中できないのだから、我ながら情けなくなる。
それで、最初の意気込みも空しく3日目あたりには完全に集中の糸が切れてしまったのだけど、だからといって途中でやめて帰れる訳ではない。何とか10日間はここにいないといけない。
しょうがないので心の赴くままに夢想や空想や妄想を精いっぱい膨らせてみたり、逆にとにかく何も考えないでじっとしてみたりと、時間をやり過ごす方法をいろいろ試みてみる。
でも夢想空想妄想に熱中して、もう20分は経ったんじゃないかと期待しながら腕時計を見ても、
まだほんの数分しか経っていない。
はー、今日はあと何時間何分残っているんだと計算しては、深い深いため息が出る。
いたずらに葛藤を繰り返すうち、「ひょっとして瞑想に集中するのが一番早く時間がすぎる方法じゃないか。」ということに気が付いてしまった。
そんな不純極まりない理由で瞑想に戻るのだけど、いざ戻ってみると前より少しだけ集中できるようになっていたりする。
しかも瞑想に集中していると40,50分くらいはあっという間に過ぎるので、これは素晴らしいと、そのうちだんだんと真剣に瞑想し始める。
ううん、なんか完全に手のひらの上で転がされている気分だ。
そうこうしながら6日目くらいになると、頭の中が妙にすっきりしてくた。
深く深く目を閉じられるというか、頭が空っぽだけど鋭くクリアな状態にあるというか、自分でも驚くほどものすごい集中力を感じられるようになってきた。
その状態で、教えられたとおりビパサナ瞑想をしてみたり、心に浮かんできた何かのトピックをじーっと深く深く考えてみたりする。
まあトピックが一つに絞られたからと言って、それも空想妄想の類には変わりがないのだからビパサナからは完全にかけ離れてしまっているのだけど、
そんなに一つのトピックを長く深く考えられることなんてないので、これがとても素晴らしい時間に感じられて、なかなかやめられない。
時にはもう20年以上顔も名前も思い出さなかった人のことが、その表情までくっきりと鮮明に浮かび上がってくることがあったり、
何年も忘れていた些細な場面が、別に楽しかったり不愉快だったりしたわけでもない本当に些細な場面が、はっきりと思い出されたりする。
人間の心って、なかなか奥が深いものだ。
もちろん一日10時間ずっと集中できるわけじゃなく、時に居眠りをし、時にぼーっとし、時に夢想を膨らませたりするのだから、極めて不真面目な生徒なことには何も変わりがない。
さて肝心の修行の成果だけど、「悟りは途方もなく遥か彼方にある」という悟りを得るにとどまった。
ビパサナ瞑想は、すごく簡単に言うと、
「自分自身を冷静に客観的に観察し続けることで、無常という真理を、知識としてではなく自分自身の経験として知り、それによって涅槃(ニルバーナ)の境地に辿り着く」
とう瞑想テクニックだ。
でも愛と調和に満ちた涅槃についてのありがたい講話を毎晩たっぷりと聞かされながら、
「この世は苦しみに満ちている。」という話の大前提自体が納得できなかったり、
「平穏で安らかな涅槃もいいけど、山あり谷ありの峠道の方が楽しいこともあるんじゃない。」
「無味無臭の食事より、時に苦くてもスパイスのきいた食事の方が美味しいんじゃない。」
などと思ってしまうのだから、僕は真の心の苦しみというものを知らない若輩者なのだ。
ちなみに10年前に引き続き2度目のビパサナ体験なのだけど、10年前もほぼ同じようなことを思った記憶がある。つまり僕は10年間で全く成長していないのだ。
まあ、あと何百回か輪廻転生を繰り返したら、いつか心から涅槃の平和を求める時がやってくるかもしれない。その時まで悟りは取っておくことにしよう。
そんな不真面目な修行の日々だけど、一応はベストを尽くして精いっぱい修行した。
お陰でいくつもの素敵なアイディアを手に入れることもできた。
頭もとてもすっきり、くっきりしている。
丸1時間全く姿勢を変えず座り続けるという離れ業だって一日一度くらいならできるようになった。
もっとも頑張りすぎた後遺症で今でも膝やお尻が痛いのだけど。
きっと、今この時期にビパサナをしたことにはきっと何かの意味があるのだろう。
いつか何かの形で、この過酷な10日間の日々が実を結ぶこといいのだけど。
さあ100時間も座り続けたのだから、早速カトマンズの街に戻ってピザとワインでお祝いだ。
やっぱり僕の居場所は、涅槃より俗世なのだ。