Jan,07,2013

トレッキングを始めて6日目にやっとトレッカーたちが行きかうメインルートに出た。
当初の予定では「やっと」という感覚よりは、ため息交じりの「とうとう(ツーリスティなところに)出てしまった」という感覚になるのだろうと思っていたのに、
蓋をあけてみれば待ち焦がれた嬉しい合流になった。
宿も立派になったし、レストランにメニューはあるし、食のチョイスは多いし、値段が交渉制でない上に、私たちが通ってきたルートよりも安いことに驚いたしショックだった。

メインルートに出たら料金は高くなるだろうけど、いちいち交渉する必要もない定価制になることが待ち遠しかった。
これまでの6日間は宿にしてもご飯や飲み物を買うにしても、毎回相手から値踏みされるのが嫌でたまらなかった。
「こいつらなら幾ら位払うだろう」、「外国人だからこのくらい取ってやってもいいんじゃないか」、「他に泊まる所もないんだし強気の値段でいっちゃおうぜ」、と言った彼らの闇の声がその顔色から伺えてしまうのが嫌だった。
でも自分が彼らの立場になったら、同じことをしてしまうかもしれないのかなと考える。


ナマステと挨拶すると小さなおててを合わせてナマッテと舌足らずの挨拶が返ってくるのがかわいい。

お金持ちの外国人。自分たちの収入よりも何十倍も何百倍もの収入を得ているんだもの、100円、200円、ちょっと誤魔化したって罰なんか当たらないよねって思うのは当たり前なんだとも思う。
顔に「どうしよう、いくら誤魔化そう」ってはっきり書いてあって目がウヨウヨしている彼らのほうが、ナイスな笑顔で「こちらの価格はメニューに書いてありますとおり200ルピーですよ。」(外国人は現地価格の5倍の価格になっていますが、何か?)と迷いなく言い切る輩より本当は友達として好きになれるのかもしれない。


ネパールの山々は棚田だらけ

それでもセンチメンタルなもので、人間の誰しもが持っている腹黒い部分もまともに見せらることが辛い。お願いだからその過程はオブラートで包んで欲しい。そのためならお金を余分に出してもいいと思うようになったのは大人になったのか、歳を取ったのか。
汚い屋台での調理過程を一部始終見てから食べるのと、同じように汚いキッチンで調理されたものの、レストランで綺麗なテーブルクロスが敷かれたテーブルにサーブされたものを食べるのとでは、食べるものは同じものだとしても食べるときの気持ちは違うものだ。それと似ているのかなとも思う。
「見なくてもいいところは見たくない。」と思ってしまうのは弱くなったのか驕りなのか。


そんなこんなで、そんなことをグルグルと考えていた日々が嘘だったかのような、外国人料金万歳(ネパール人側からの気持ちで)の値段設定のメインルートが始まった。
レストランや宿も選ぶほどあるし、ルートも分かりやすく、私たちは歩いて美しい景色を楽しめばよいのです、という日々。
考えなくていいというのは楽なのだ。
これがレールに乗っかった人生というものなのだろうか。
毎日ため息しか出ないような素晴らしい風景を見て、好きな時に好きなご飯を食べ、暖炉の火で暖まり、幸せな気持ちで眠りにつく。
自転車に乗っている時も、街でダラーっと休憩している時も、こんなに何も考えない日々はなかったかもしれない。
「ふー、美しい」と唸っていればいいだけでいいのは、幸せなことなのだ。



トレッキングを始めて初めて雪山が見えたのは3日目。やっぱり雪山が見えるとテンションがあがる。

最初の6日間のトレッキングは当初期待していたような笑顔のローカルと触れ合う旅にはならなかった。でも、通るべくして通った道だったのだとも思う。
レール通りの旅では気づけなかったものがそこにはあった。
楽なだけが楽しい人生ではないものね。


「わー、綺麗な雪山が見えた」と喜んで地元の人に山の名前を尋ねると「知らない」と残念な返事。あんなに綺麗な山なのにネパール人にとってはいっぱいある山のひとつでしかないのだ。



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