弓場農場での2週間はあっという間だった。
今は何だか心にぽっかりと穴が開いてしまったかのようにぼーっとしている。
一夏の恋が終わってしまったかのように。
弓場のことをどこから書いていいものなのかよく分からない。ぐるぐると思いを巡らせては自分の中でよく分からなくなってしまってキーボードを叩く指が止まってしまう。
そもそも2週間ぽっきりの短い期間では正直何かが分かった訳ではないのだから、何かを偉そうに書くつもりは全くないのだけれども、せめて心地良かった生活がなぜそんなにも心地よかったのかを自分なりに噛み砕いて言葉に表したいと思うのだけど、それすらなかなか前に進まない。
弓場での共同生活では、人と人の距離が近くて温かい、大きな家族のような関係に心地よさを感じた。
人がある程度集まって暮す以上、意見の食い違いもあれば相性の問題もある。
いつも穏やかな共同生活というわけにはいかないと思う。
ましてや労働を共にし、収益も全て共同の財布に入っていくものとあれば、大変なことのほうが多いのではないかと思ってしまう。
そう思ってしまうのは私がまだまだ利己的だからなのかもしれないけど、問題だってたくさんあるに違いない。
それでも弓場は共同生活という形をもう90年近く続けている。
沢山の問題をともに乗り越えたからこそ、絆も深いのだろう。
温かい安定感のある大きな家族の形には感銘を覚える。
弓場で暮すほとんどの家族は親戚同士で全くの赤の他人とは違うので、分かり合えるところもあれば、我慢できるところも多いのかもしれないけれども、世界には他人同士が一緒に暮らすコミュニティーも数多くある。
このようなコミュニティーがどのように問題を解決し、うまく和をもって存在していっているのかをもっと知りたいなと思うようになった。
共同生活をする上での問題の数々を上手に解決していけるならば、人が近くにいる生活は心地よい。
例えば子育てや介護で家に閉じこもってしまって孤独を感じている人々が多い今の日本の社会と比べて、周りに助けてくれる人たちや、ちょっとした愚痴をすぐに発散できる人たちがいること、ただたわいもなく日々の生活の中で関係してくる人たちの存在が、どれだけ籠りがちになってしまいそうな心を楽にしてくれるだろうかと、何度も強く思った。
別に子育てや介護に限らない。
日本での日々の生活はちょっとしたことで孤独を感じることがある気がする。素晴らしい友人たちだっているし、いい伴侶にも恵まれているし、ちょっと遠いところにいたけど両親も健在でいつでも助けてくれる、そんな私でもさみしいなと感じることが日々の生活であった。
多かれ少なかれ誰もが同じ思いをしているのではないかと私は思う。
だから多くの人たちがフェイスブックだとか、mixiだとかのソーシャルネットワークで誰かと繋がっていたいと思うのではないかと思う。
家族がいてくれるだけで、得られる安心感は多大だ。
家族のように近い関係を持てる人たちに囲まれる生活は、精神的な安定に大きく関わってくると思う。
日本も一昔前はもうすこし近所との付き合いが密だったり、銭湯に行ったり、町内会での活動があったりと、共同生活とまではいかなくてもそれに近い人づきあいがあったのだと思う。
そういった関係を色々と面倒に思う人が多くて、今のように近所づきあいというものが希薄になっていったというのも事実であって、必ずしも人に囲まれた生活をすることが誰もにとって心地良いものではないのだとも思う。
人と人との関係が世の中で一番難しい問題なのかもしれない。
その一方で、人と人との関係が世界で一番面白いものだとも思う。
面倒だという気持ちを乗り越えて、再び人ともっと密接に暮らしていけるようになったら、
「自分が自分が、、」というものを押さえて、もう少し温かく穏やかな気持ちで暮して行けるのではないのだろうかと思う。
それでもやはり共同生活は誰でもに向いているものではないのだろう。
では向いていると思った人たちが集まったらうまくいくのか?
疑問は尽きない。
弓場農場での温かい大きな家族との共同生活の日々は、きっと私たちの今後の人生に影響を与えてくれるのだと思う。