ティグレには100以上の岩窟教会が点在している。
その中でアブナ・イェマタという教会に私はどうしても行ってみたかった。
15世紀ごろに造られたというこの教会は、切立った300mの岩山の上にあって、
ロッククライミングさながらの岩壁を登らないと訪れることができないという。
圧倒的なロケーションもさることながら、内部の壁画も非常に美しいという。
この教会は誰もが行けるというところではない。
それが余計に行ってみたくなった理由でもあった。
「クライミングの経験は?」
「高所恐怖症ではないね?」
ガイドに何度も確認され、アブナ・イェマタへ向かった。
これから登る先を見上げると、真っ直ぐな壁がすうっと空にのびていて、
極度の乾燥で肌も唇もカラッカラなのに、手からはべとっと汗が出て来た。
「大丈夫、なんとかなるはず。」
緊張よりもこの上に何があるのだろうかという方が強かった。
見たい、ぜひとも写真じゃなくてこの目で見てみたい。
山の中腹で2、30人の人々と僧侶たちが集まっていた。
今日は月に1回の特別なミサの日だとういう。
祈りの声を聞きながら岩の上を見上げた。
私は無宗教だけれども、世界の色々な宗教の場で感じる、
この厳かな空気が好きだ。
好きという軽い言葉を使うのが申し訳なくすら感じる。
ミサが終わって、僧侶の一人と一緒に、岩の上のアブナ・イェマタへ向かった。
岩の上の教会には僧侶たちでさえ週に2回ほどしか登らないという。
「彼は80歳なんだよ。」
ガイドが軽やかに岩を登っていく僧侶を指して言った。
標高が2500m近くあるので、ちょっとした坂を上ってもハァハァしてしまうのに、
前を行く僧侶はピンと背筋を伸ばして、ピョンピョンと登っていく。
「凄いなぁ」とのんきに感心していたら、目の前にクライミングジムのような壁が現れた。
僧侶がジェスチャーで「俺の登る通りに登っておいで」と言い表して、
垂直な壁を軽やかに登っていった。
あっぱれ、じいさん!!
80歳ですよ、80歳。息も切らさず登っていった。
壁にはこれまで沢山の人々が掴んだ窪みがしっかりとあって、見た目より登りやすかった。
いったん壁に取りついてみると、怖さよりも楽しさのほうが大きくなった。
私はインドアクライミングしかしたことがないのだけど、
多くの人が外でクライミングしたほうが何倍も楽しいっていうのはこういうことなのかもしれないって、ちょっと思える余裕があった。
ドン臭そうな私が意外とひょいっと登ってきたことに僧侶は少し驚いたのか、
ちょっとビックリした顔をしながらニヤッと笑った。
次に登ってくるヒロを見ようと思って下を見たら足がガクッとした。
「うひゃー、こんなとこ登ってきたんだ。これは帰りが怖いや。」
クライミングやっといてよかったー!と思った瞬間。クライミング経験がないとかなり怖いと思ってしまうかも。
後は急だけれども歩きやすい岩を登るだけだった。
ぱぁーっと景色が開けた。
天上の人になった気分がするほど、足の踏み場は狭かった。
ちょっとバランスを崩したら片道バンジージャンプであの世行き。
よくぞこんなところで岩を掘って教会を造ろうとしたものだとも思うし、
こういう所こそ、心を無にすることができるところだという気もする。
私がどう思おうと、そんなことはどうでもいい。
とにかく息をのむ美しい景色が眼下に広がる。
文字通り眼下に。
最初にたどり着いたトップ。狭い足の踏み場を踏み外したら300m一気に落下。
あまりに景色に感動していたら、僧侶が「お前は教会を見に来たのだぞ、忘れたのか?」というような顔で、さらに小さい岩を登り、スタスタと消えていった。
教会は人一人がやっと通れる細い通路(片側は断崖絶壁)を渡った先にあった。
僧が扉を開けて、真っ暗な教会のなかに光が差し込んだ。
僧に続いて足を踏み入れ、しばらくして目が慣れて目の前に浮かび上がってきた壁画の色鮮やかさに息をのんだ。
17世紀に描かれた壁画がそのまま残っているという。
暗い岩窟教会だから残すことができる色鮮やかさだ。
壁一面、天井一面に美しい壁画が残る。
しかも私たちが大好きなエチオピア正教のかわいらしく、ユニークな宗教画。
でも素晴らしいのは宗教画だけではなかった。
この小さな真っ暗な、岩を掘りぬいた教会は、今まで見たどんな教会よりも圧倒的に
美しかった。美しいステンドグラスがあるわけではない、美しい照明器具があるわけではない、
美しいどころか床の布はノミやダニまみれであろう。
でも、鳥肌が立つくらいに本当に美しかった。
この教会に来れたことに心から感謝した。
立ってるだけでも足がガクガクするくらい。私のすぐ隣に教会のドアが。
言葉には出来ない美しさが。
足が地に着かないようなフワフワした気持ちで下った。
帰りが怖いと思った岩壁も、フワフワした気持ちのまま、気付いたら下り終わっていた。
さっきミサがあったところで、村人たちがミサ後のタッラ(エチオピア独特のお酒)を飲んでいるから飲んでいかないかと誘われた。タッラはちょっぴり苦手だったけど、せっかく誘われたのだし、いただくことにした。
大切な宗教の場に、観光気分でやってきた私たちなのに、
「ここに来てくれてありがとう、私たちのタッラを飲んでくれてありがとう。」
と温かい言葉をもらって、胸が熱くなった。
精一杯の気持ちを込めて「アムサゲナッロ」(アムハラ語で「ありがとう」)と伝えた。
みんな顔をしわくちゃにして手を振って見送ってくれた。
アブナ・イェマタ。
また一つ、世界の美しい場所を見せてもらった。
アムサゲナッロ。
岩の上からの景色。