Mar,17,2013

本当のところ「いい嫁」でいたければ舅&姑と旅をするものじゃないかもしれない。
2週間も一緒にいれば猫もかぶれない。
それにハプニングかつきものの旅は、よそゆき姿でばかりいられないのだ。

それでも舅姑との旅はしておくべきだと強く思う。
自分も隠せない分、彼らも素を見せてくれる。
それがとても愛おしいことだと感じた。
私にとってこの旅は、家族としての絆をより深められた大切な機会になったことは間違いない。


2年前に私の母がトルコへ遊びに来た。
その時はひろが私と母に気を遣って「お母さんと娘二人でゆっくり旅しておいで」と、ひろはトルコ走行を続けて私と母二人で2週間の旅をした。
私は私で「ひろも2週間も母と一緒では気疲れしてしまうだろうし」と喜んで二人旅を選んだ。
できる限り母を楽しませてあげたいという気持ちいっぱいでテンションあげっぱなしの2週間は疲れたには疲れたけれども、自分でも驚くほど楽しかったし幸せだった。
それに気が知れた母だけに気疲れとは無縁だった。


今回はもちろん自分の両親でない以上、気も遣った。
ひろも私がいることで助かったことも多かっただろうけど、私が気を遣っていることに気を遣い、私がいることでひろの両親が気を遣っていることにも気を遣ったわけで、
ひろにとっては大変な日々だったとも思う。
でも、これは私個人にとってもひろ個人にとっても、私たち夫婦にとっても、そしてひろの両親にとっても、かけがえのない経験だったと思う。
気を遣うってことは別に悪いことばかりではないのだ。
相手を思いやり、優しくなることでもある。
みんなの気遣いが上手く調和したとき、無理のない心地の良い関係が出来上がる気がする。


最後に母と父を空港で見送った後、涙でいっぱいになった。
別にいい嫁ぶるわけではないけど、両親から解放された喜びではなかった。
彼らとしばしお別れになるのが寂しいというわけではない。
素晴らしい日々を一緒に過ごせたことが、心底嬉しかったのだ。
ニュージーランドならではの絶景やアトラクションを楽しんでもらっただけではなく、
一緒に過ごした時間そのものを楽しんでもらうことができたのではないだろうか、という満足感でいっぱいだった。
両親にNZ自体を楽しんでもらったことは何よりの目的達成ではあったのだけれども、
私にとっては一緒に料理したこと、庭に寝そべって満天の星空を眺めたこと、現れては消える夕空の雲を眺めながら何に似ているか探しをしたこと、暖炉を囲んでおしゃべりしたこと、山に登りながらたわいもない話をしたこと、そんな小さな幸せに満ちた温かい時間を過ごせたことが何よりも嬉しかった。


両親のアテンドから解放され、どっと疲れがきて寝込んでしまうかと思ったその日は、私もひろも妙に高いテンションで何だかソワソワしていた。
疲れどころか満足感で高揚してしまって、このまま徹夜で踊りにいっちゃおうかと思うくらいテンションが高かった。
全く予想外の症状に二人とも戸惑ってしまった。


ひろが「ありがとう、ようこ。俺と両親だけでなく、ようこと4人で旅できて本当によかった。」と言ってくれた。
私も「一発逆転いい嫁になれる機会かもしれない」と鼻息荒く臨んだ旅だったけれども、その意気込みもすっかり忘れて心地よく楽しんだ。
いい嫁になれたかどうかは一生本音を聞くことはできないと思うけど、そんなことはもうどうでもいい。
私にとってかけがえのない素敵な旅になったのだもの。

今度は私の両親とひろと4人で旅ができたらいいなと思っている。
ここで声を大きくしてもう一度、舅と姑と一緒に旅をぜひ。




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